灯りもタダじゃない。贅沢品のこともままある。
(昔はそういう見方は無かったのだろうか…?)と思っておりましたら、
やはりあったようです。
『君子訓』
益軒全集3、P,453
君子の財をみだりに用ひずしてをしむは、
人に益ある事に財を用ひんが為なり。
たとへば百万銭をつひやして、
万燈をともさんよりは、
十万銭を出して飢たる者、万人を養ふは益多し。
まあ、そりゃそうですよねえぇ。
別の本にも、似たようなことが書かれてます。
『南遊紀行』@高野山、奥の院
〇此あたりに、万燈堂とて、大なる堂有。
益軒全集7、P,123
昼夜千灯をともす。
貧家には一燈をだにともしがたきに、
古来たえず燈油の費 きはまりなし。
これは、いまの燈篭堂のことでいいのか?な。
燈籠堂といえば、「貧女の一灯」
https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/minwa/12.html
の話があります。
益軒の時代にこの説話が成立していたかどうかは分かりませんが、
成立していたなら、コレ完全に皮肉じゃないか…?
(あるいは、この話も益軒の浪灯批判と同じく、
「お供えは量より信心」な価値観を受けて流布したのかも?)
当時、この人にとって
高野山はどんな場所で、どんな場所に見えてたのか。
まあ、益軒は儒者ですので、仏教について
「繁栄しちゃってマァマァ」という気持ちがあったかもわかりませんが。
それとともに、「なんかイメージと違った」っていうのも
あったんじゃないだろうか。
↓高野山に関する他の記事
・御廟の橋には、罪業深い者は渡ることが出来ないとの伝えがある。が、そういうデマカセのせいで、真実の教えをもニセのように思われたら、どうするのさ?
・商家が多い。商家も妻帯してないし、魚鳥を食べない。
・山中は周りがみんな山なので景色がよくない。とりたてて佳境無し。
・山中は寂寞として静かな場所なのかと思っていたけど、そんなことはなく、大繁栄して騒がしい場所だ。
・畑は無いので、ふもとから食物を運んでくるのが大変らしい。
・山中の寺院は川へ糞尿を流すので、下流の人は汚れを飲むことになる。
・旅行客も山中では駕籠に乗れない。
などなど。面白いです。