そでふり灯籠

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雪国の春(柳田国男)①

資料の宝庫でしょう

風と光と
とにかくに自分はコタツその物よりも、コタツ時代とも名づくべき前期生活に興味をもつ。ことにこの奇抜にしてしかも悠長なる保温法を、現在の完成にまで持ち運んで来たところの、文明の過程には考察すべきものがあると思う。
けだし火の最も原始的なる魅惑力は、炎であり光であった。子供などは何の入用もない場合にも、物を燃やして突如として咲く花の、あでやかさを賞玩しようとする。暗黒の不安を追い払うためには、はねてぱちぱちと音を立てるような、豆がら、馬酔木(あしび)の類をまじえてたく必要さえ認められた。しかるに今コタツの温雅なる情趣を味わわんとするならば、もうこれらいっさいの古風なる快楽と、袖を分かってしまわねばならなかったのである。
必ずしも巌窟の穴の奥に隠れた大昔には限らず、家を建て簾すだれを垂れて住み始めてよりずっと後まで、窓はできるだけ高く小さく、戸を閉じ壁を塞いで雨であれ風であれ、あらゆる外からくる者を総括して、恐れかつ防衛していた世の中においては、炉の火はまことにただ一つの家の中の光明であった。
月は洩れ雨は漏るなという古歌にもある通り、かがやく青空の光ばかりを、差別して内に迎え入れる方法は、以前にはなかったのである。それが今日のようにどの室も明るく、最早炉の火に炎と光明とを仰ぐことを、必要とせぬまでになったのは、単なる人間の智慮分別といわんよりもむしろ具体的に紙の力、あかり障子の功労といったほうが当たっている。
その後紙はおいおいにガラスに取って代わられ、ついには日中の電気燈とまで進んできて、人はいかなる地下室の底ででも、動きうるようになったのであるが、それは必ずしも結構なことでないかもしれぬ。ただ少なくとも数十年来の火の光を断念し、かつては荒神(こうじん)さまとまで尊信畏服していたものを、今日のごとく自由自在に制御するようになったのも、要するに皆コタツ時代の新たなる事業であり、また自信ある勇気の獲物であって、コタツはこの意味においては、わが国民文明の一つの凱旋門であった。

火の管理者

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さてこれほどまでに秩序を正して、家には一つしか火の中心を作らぬように努めたのであるが人の心の変化はぜひないもので、ついに室ごとにコタツを置かねばならぬ時代がきた。最初は取り扱いに面倒な年寄などをすかして、安火一個に封じ込めたりしたものが、後には息子が新聞や本を抱えて、みずから独立を宣するようになった。それを後援したのは紙とガラスの障子、次にはランプまた電気燈などであった。がもちろん彼らはこれを教唆したのでなく、木炭と同様に頼まれてただやってきただけである。

折り焚く柴
火を焚けば話がはずむという原因結果は、よほど久しい大昔からの、不思議なる法則であったらしい。前年オランダのローレンス博士の一行が、二度目のニューギニア雪山の探険を企てた時には、いろいろ考えた末にボルネオ内地の土人を人夫に連れて行った。勇敢で従順で正直なことは申し分がなかったが、ただ一つの欠点は夜営地で焚き火をさせると、火のある間は話をしていてどうしても睡ねむらないから、日中に居眠りをして困ることであった。赤道直下の島に生まれた彼らには、通例は火の必要はないはずであるが、一たび高山に登って榾火(ほたび)の夜の光に接すると、たちまちにして悠遠なる祖先の感覚が目ざめて、特殊の興奮に誘われずにはいなかったのである。
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改造の歩み
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ただし相州津久井の内郷村などでは、また別様の話がある。村で生まれた校長の長谷川氏は、十二、三歳のころまで家にヒデ鉢と称して、松を焚いて燈火とするための石の平鼎[ひらがなえ]を用いていたのが、それからの二十四、五年間に行燈からカンテラ、三分心・五分心・丸心のランプをへて、今はもう電気を引いて昔のままの勝手を照らしていると話された。しかもその最近の古物のヒデ鉢が、どうなってしまったものか、村内にいくつも残ってはいなかった。この気仙郡の半島にも、ヒデ鉢とはいわぬが松を焚く土製のランプはあった。あるいはまたこわれた鍋などをも利用していたという。しこうして今やこれを忘れ、もしくは笑わんとしているのを見れば、篤実なる農民とても、決して物を昔にするの能力を全然欠いているのではない。ただ面倒にそんなことをする必要がなかったまでである。
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