そでふり灯籠

灯籠やあかりを集めています

雪国の春(柳田国男)②

鵜住居の寺
江戸では青山辺の御家人などが、近世まで盆の月には高燈籠をあげていた。将軍某駒場の狩の帰るさに、その光の晴夜の星のごとくなるを賞(め)でたという話が残っている。それがたぶん御一新の変化から、一様に軒先の切子燈籠(きりこどうろう)となり、さらに転じては岐阜提灯(ぎふちょうちん)の水色となって、おまけに夏の半ばには引っ込めてしまうゆえに、いわゆる秋のあわれまでが、今ではこのように個人化するに至ったのである。百年前の『秋田領風俗問状答書』の絵に見えている通りの昔風の燈籠は、陸中に入ってからしだいにこれを見かけるようになった。寺の境内に立てた高い柱には、昼の間は白い幡を掲げて置く例もあるが、尋常民家の燈籠木に至っては、いずれも尖端を十字にして、杉の小枝を三房結わえてある。以前はその木が必ず杉であったことを、これだけでも示すのみならず、村によっては今なお天然の杉の木を、梢ばかり残して柱にしているものさえあった。
今では不幸のあった翌々年の盆まで、この燈籠は掲げる習いになっている。空を往来する精霊(しょうりょう)のためには、まことに便利なる澪標(みおつくし)であるが、生きた旅人にとってはこれほどもの寂しいものはない。ことには白い空の雲に、または海の緑に映じて高く抽(ぬ)け出でて立つのを見ると、立ち止まってはこれら労働に終始した人々の、生涯の無聊(ぶりょう)さを考えずにはおられなかった。閉伊(へい)の吉里吉里(きりきり)の村などは、小高い所から振り返ってみると、ほとんど一戸として燈籠の木を立てぬ家はない。どうしてまたこのようなおびただしい数かと思うと、やはり昨年の流行感冒のためであったのだ。
仏法が日本国民の生活に及ぼした恩沢が、もしただ一つであったとするならば、それはわれわれに死者を愛することを教えた点である。供養さえすれば幽霊もこわくはないことを知って、われわれは始めて厲鬼駆逐(れいきくちく)の手をゆるめ、同じ夏冬の終わりの季節をもって、親しかった人々の魂を迎える日と定めえたのである。合邦(がつぼう)の浄瑠璃にもあるごとく、血縁の深い者ほど死ねば恐ろしくなるものだなどといいつつも、墓をめぐって永く慟哭(どうこく)するような、やさしい自然の情をあらわしうることになったのも、この宗教のお蔭といわねばならぬ。

岐阜提灯はこういうもの http://www.gifu-chochin.or.jp/

津軽の旅
……
しかもその千年来の恋の泊りが、今や眼前において一朝に滅び去らんとしているのである。いっしょにあるいていた遠藤技師の話でも、三、四年前にちょっときてみた時には、町の両側のいずれの家からでも、なまめいた女の声の聞こえぬ家はなかった。黄昏前には美しい燈を点じて、笑ったり歌ったりする者が、もとは何百人となく遠い国から入り込んでいた。よく昔から十三の七不思議などと称して、田はなけれども米が出る。父はなくても子が生まれるなどと、いろいろ笑うような話の種は多かったものだが、材木を積む船が青森の方へ廻るようになっては、忽然としてことごとく覚めたる夢になってしまった。……

町の大水
宿に着くころまでは、雨はひどかったが靴の汚れるほどの路でもなかった。それがおそい昼飯を食う時分には、向かい側の町役場の前で人声がして、出てみると救助の小舟を物置から担ぎおろしている。いよいよ水がくるかなと思いながら、風呂を知らせてきたから行って入った。番頭はよく話をする。それでも後には水の話になって、今年が七年目だそうですからなどと、少しは心配そうである。
髭などを剃っているうちに、外はもう暗くなった。ちゃぶりちゃぶりと水の音をさせて歩く者がある。最初は子供がわざと水溜りを通るのかと思っているうちに、だんだんと音が大げさになる。手摺の上から西東の通りを見ると、町ははや家々の燈火が映るまでになっていた。そのうちに大掃除の時のような音が下でする。畳を揚げ出したのである。空いていた隣の室に、病人づれの下の客が引っ越してきて、ため息をつきながら床を取っている。困った困ったなどという声が聞こえたがやはりほどなく自分とともに、闇を透かして水の様子を見ようとしているのである。向こうの町役場には高張がつき、提灯がおりおり出入りをする。
……

二十五箇年後

唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずのうち、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯(つなみ)で潰(つ)ぶれた。その残ったという家でも床の上に四尺あがり、時の間にさっと引いて、浮くほどの物はすべて持って行ってしまった。その上に男の子を一人なくした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。道の傍に店を出している婆さんの所へ泊りに行って、明日はどことかへお参りに行くのだから、もどっているようにと迎えにやったが、おら詣りとうなござんすと言ってついに永遠に帰ってこなかった。
この話をした婦人はそのおり十四歳であった。高潮の力に押し回され、中の間の柱と蚕棚(かいこだな)との間に挟まって、動かれなくているうちに水が引き去り、後ろの岡の上で父がしきりに名を呼ぶので、登って行ったそうである。その晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたという。海上からこの火の光を見かけて、泳いで帰った者もだいぶあった。母親が自分と同じ中の間に、乳呑児といっしょにいて助かったことを、その時はまるで知らなかったそうである。母はいかなる事があってもこの子は放すまいと思って、左の手でせいいっぱいに抱えていた。乳房を含ませていたために、潮水は少しも飲まなかったが山に上がって夜通し焚火の傍にじっとしていたので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤の埃でゴマあえのようになっていたそうである。その赤子が歩兵に出て、今年はもう帰ってきている。よっぽど孝行をしてもらわにゃと、よく老母はいうそうである。

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